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    その日、河原町では早朝から何かしらざわめいていた。町の裏手に迫つている山々はちやうど東側にあたつていたので、朝の日は河原町の上に光を投げて家々の白壁を明く浮き上らせる前に、町の西方にひろがつた盆地の端に低く長く横はつている小高い丘陵地(それは最近切り倒された雑木山であるが、町からはかなり遠いので、何だかそこだけが茶褐色の埃を浴びているやうに見えた)に最初の薔薇色の光を投げかけた。空にはきれぎれの雲が浮かんでいた。それはどこを向いて流れているとも判らないほどゆつくり動き、動くにつれてだんだん形を変へ、うすれ、又新しい雲がどこからか生れていたが、それもゆるゆると消えて行くのであつた。

    さうかと思ふと、朝早くから農婦たちが背中に子供を負ぶつてやつて来る。それが唯一の目的のときには恐しく早朝に出かけて来るのであつた。さういふ場合にかぎつて、房一は彼女等の背中に、熱ばんだ小さな顔を上向きにして喘あへぐやうな呼吸をしている幼児を見、その手遅れであることを認めるのであつた。

    今泉はかすかに鼻のあたりを不満げにふくらませた。

    房一はすぐと、大石練吉のことを思ひ浮かべた。大事をとるといふ名目で、彼の対診を求めることにしたのである。

    「や、これは。高間さんですか。お久しぶりで」――「お忙しいですか」

    市造は医者だと知つてすぐに起きなほつた。そして、房一が折鞄の中からまだ真新しい聴診器をとり出すのをたゞ無意味に眺めていた。誰に似たのか、市造は恐しく輪郭の整つた顔立ちだつた。あまりきつちりしているのでどこか寸がつまつて見え、硬い大人の面をかぶつた子供といふちぐはぐな感じにも見えた。たゞ、眼だけは紛れもない父親ゆづりの黒味のひろがつたあれだつた。

    それは、やつぱり何となく「役所」臭かつた。

    船体を洗ひ終つて、これから雑具にかゝらうとしたときだつた。彼はふと対岸に目をやつた。物音がしたわけでもなければ、気配を感じたのでもない。しかるに、そこの路の曲り角には、まるで符合したやうにその時きらきら光る真新しい自転車に乗つた男が現れたところだつた。

    房一はきつぱり云つた。男は、これは話が判る、といふやうな顔をした。それに押つかぶせるやうに、

    と、房一はそれまで彼のわきにおとなしく坐りこんでいた犬に声をかけた。川を渡る間中、落ちつかない様子で、普通に地面に坐るのとはちがふ感じにぺつたり船底に腰をつけて時々中空に鼻を上げて、何かの匂を嗅いでいた犬は、房一が自転車を持ち上げるのと同時に、足の下からさつと河原にとび降りて、そこら中を駆けまはつた。

    徳次はこの往診といふ言葉がさきほど河原で房一の口から聞いた時に突然耳新しく身近かに響いたのを思ひ出しながら、それを口にするのを楽しむやうにつけ加へた。

    「昨日、君とこの奥さんがバスに乗るところを見かけたが、――」

    「あなたは御存知ないんですかね」

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