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    「や、さうですか。僕も今そこから帰るところです」

    「今日はほんの御挨拶に上つたので、いづれ又ゆつくり――」

    「よく来て下さいましたな。何しろ不便なところですから、途中が大変だつたでせう」

    が、ふいに一つのことが彼の頭に閃いた。それは盛子の妊娠だつた。それもたつた今さつきはじめて耳にしたことにちがひなかつた。が、この事はすでにずつと前に聞き、彼の心にぐつと深く喰ひこんでいることのやうに、思ひ出すと同時に何か身体中がさつと目覚めて来るやうな厚ぽつたい感覚で蘇つて来た。

    「先生、どうしなさる?着て行きますかい」

    「今日は士曜日で、半休だからね」

    そこへ房一が帰つて来たのだ。盛子は横坐りの所を見られまいとして慌てて立上つた。

    「ちつとも知りませんでしたよ」

    房一はその時診察用の椅子に腰を下して、ゆつくりと煙草をふかしながら、何気ない風で男の様子に目をつけていた。彼は男の要求する意味を悟つた。たゞ治療をしろ、他のことは見て見ぬ振りをしてくれ、まして他言は無用だ、といふ意味だつた。

    三十分もたつた頃、自動車は角屋の表で停つた。そこは国道が河原町に入らうとする曲り角で、角屋は国道に沿ひ、裏は河に臨んだ旅館である。責任者としての房一と神原喜作がそこにやつて来た時には、署長はまだ加藤巡査の報告を受けている最中だつた。若し房一達の来るのがもう少し遅れたら、加藤巡査の報告もあやふやになり、署長はじめを現場へ案内せざるを得ない破目はめにもなつただらう。そして、事は出張所の消防演習を火事と誤認して人だかりがしたのに過ぎず、事実が判明するにつれて漸次分散して行つた、といふことに落ちついた。全く一時は成行を憂慮された事態も、落着してしまへば、事実その通りにちがひなかつたのである。

    「それで、何かね。ドイツ兵は徒歩てくで通るんかね」

    「どうも御苦労さま、暑いところを」

    「もう帰つたんかね」

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